謎の男「吉田清治」について(1)。百田尚樹氏『実は「吉田清治」なる人物は、死亡していた吉田雄兎氏に背乗りした人物ではないかと囁かれていました』
百田尚樹著『今こそ、韓国に謝ろう、そして「さらば」と言おう』(飛鳥新社)で吉田清治について語られていましたので、少し長くなりますが、ここで紹介したいと思います。
吉田清治は本名を吉田雄兎と言います。吉田清治はペンネームです。生まれたのは1914年(大正3年)ということですが、実はこれも詳しいことはよくわかっていません。本人は山口県と言っていますが、福岡県出身という情報もあります。
また1930年代から1970年代まで、彼の経歴が一切わからないのです。というのも彼が語る経歴(働いていた会社や組織)を調べていっても、そこには吉田がいたという記録がどこにもないからです。また、朝日新聞の記事で一躍有名になったにもかかわらず、吉田清治の若い頃を知っているという人物はまったく出てこなかったのです。
法政大学を出たと自称していますが、大学には吉田雄兎が在籍した記録はありません。戦争中、刑務所に二年間服役していたらしいですが、何の罪かもよくわかっていません(彼自身の証言はころころ変わっています)。
さらに奇妙なことがあります。吉田雄兔は1937年、24歳の時、19歳の朝鮮人男性を養子にしているのです。二人の間にどんな関係があったのかはわかりませんが、常識的に考えて、24歳の独身男性が19歳の男性を養子にするというのは不自然な話です。その養子縁組した息子は翌年に戦死した、と吉田自身が語っていますが、歴史学者の秦邦彦氏の調査では、その人物は1983年に亡くなっていることがわかっています。
吉田雄兎に関することで最も不可解なことは、彼が卒業したとされる門司市立商業学校の1931年(昭和6年)の卒業者名簿には、「吉田雄兎 死亡」と記されていることです。1931年といえば、吉田が生きていたとするなら17歳です。卒業者名簿に生きている人間が死亡と書かれるなんてことは滅多にありません。名簿の記載が正しいとするなら1931年時点で吉田雄兎なる人物はこの世にいなかったことになります。
そして52年後、それまで歴史の中に消えていた人物、吉田雄兎が突如、姿を表すのです。「済州島で泣き叫ぶ朝鮮人女性を奴隷狩りのようにして慰安婦にした」という証言を引っさげてーーー。
いったい、これはどういうことなのでしょうか。
実は「吉田清治」なる人物は、死亡していた吉田雄兎氏に背乗りした人物ではないかと一部では囁かれていました。「背乗り」は「はいのり」と読みます。ある人物の身分や戸籍を乗っ取り、その人物にすり替わってしまうことをいいます。かつて旧ソ連のスパイや北朝鮮の情報員がよく使った手です。
吉田雄兎に背乗りした人物は朝鮮人だったのかもしれないと言われています。確かにそう考えると、いろんなことで辻褄が合ってきます。