「日露戦争、日本海海戦」について考える。司馬遼太郎『坂の上の雲』より。

『坂の上の雲六』P227より

日本史をどのように解釈したり論じたりすることもできるが、ただ日本海を守ろうとするこの海戦において日本側がやぶれた場合の想像ばかりは一種類しかないということだけは確かであった。日本のその後もこんにちもこのようには存在しなかったであろうということである。

そのまぎれもない蓋然性は、まず満州において善戦しつつもしかし結果においては戦力を衰耗させつつある日本陸軍が、一挙に孤軍の運命におちいり、半年を経ずして全滅するであろうということである。

当然、日本国は降伏する。この当時、日本政府は日本の歴史のなかでもっとも外交能力に富んだ政府であったために、おそらく列強の均衡力学を利用して必ずしも全土がロシア領にならないにしても、最小限に考えて対馬島と艦隊基地の佐世保はロシアの租借地になり、そして北海道全土と千島列島はロシア領になるであろうということは、この当時の国際政治の慣例からみてもきわめて高い確率をもっていた。

むろん、東アジアの歴史も、その後とはちがったものになったにちがいない。満州は、すでに開戦前にロシアが事実上居すわってしまった現実がそのまま国際的に承認され、また李朝鮮もほとんどロシアの属邦になり、すくなくとも朝鮮の宗主国が中国からロシアに変わったに相違なく、さらにいえば早くからロシアが目をつけていた馬山港のほかに、元山港や釜山港も租借地になり、また仁川付近にロシア総督府が出現したであろうという想像を制御できるような材料はほとんどないのである。

同P429より

もっとも装甲艦が演ずる近代戦の戦術についての著書のあるH・W・ウイルソンという英国の海軍研究家は、日露双方の発表によって事情が明快になったとき、「なんと偉大な勝利であろう。自分は陸戦においても海戦においても歴史上このような完全な勝利を見たことがない」と書き、さらに、「この海戦は、白人優勢の時代がすでにおわったことについて歴史上の一新紀元を劃したというべきである。欧亜という相異なった人種のあいだに不平等が存在した時代は去った。将来は白色人種も黄色人種も同一の基盤に立たざるをえなくなるだろう」とし、この海戦が世界史を変えたことを指摘している。

 

マスコミの報道のあり方と国民性について考える。『坂の上の雲』より

・・・『坂の上の雲』第2巻P204より・・・

新聞が、よく読まれた。どの町内にも一人は新聞狂のような人物がいて、時事に通じていた。それ以前のどの時代にもまして、時事というものが国民の関心事になっていた。それほど、世界ことにアジアの国際情勢と日本の運命が、切迫していたといっていい。こころみに筆者も、当時の新聞各紙をひろげてみる。

「露国の大兵、東亜に向かう」明治34年1月11日の時事新報。ロシア陸軍四万がオデッサから海路極東に向かったという。

「まさに来らんとする一大危機・露国の満州占領は東亜の和平を攪乱す」1月22日の万朝報(よろずちょうほう)の社説。

「露国密約問題に大学教授ら奮起。伊藤内閣の軟弱外交を痛罵す」1月24日報知新聞。露清密約はまだ風説の段階であったが、法科大学(東京大学法学部)の有志教授たちが「ロシアと開戦の機、逸すべからず」と痛論し、あわせて伊藤博文の対露軟弱外交を憤慨し、

「いかに文化が進んでも、一国の独立をもちえなければ、ついになんの用もなさぬ」と、論じた。

「帝国議会は、こぞって恐露病患者」というのは、同紙の30日付の記事。

・・・第4巻P24-P25・・・

老化した官僚秩序のもとでは、すべてがこうであった。1941年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきってる点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦争をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というよりは恫喝に対して、たれもが保身上沈黙した。その陸軍内部でも、ほんの少数の冷静な判断力のもちぬしは、ことごとく左遷された。結果は、常識はずれのもっとも熱狂的な意見が通過してしまい、通過させることによって他の者は身分上の安全を得たことにほっとするのである。

・・・第6巻P88より・・・

奉天会戦後の日本の国力窮乏についてはルーズベルト大統領は知りすぎるほど知っていた。しかし同時に、日本人が慢心しはじめているということも、日本の新聞の論調の総合されたものを東京の公使館から報告を受けて知っていた。日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道し続けて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ち込んでゆくことになり、さらには持ちこんで行くための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。戦後、ルーズベルトが、「日本の新聞の右翼化」という言葉を使ってそれを警戒し、すでに奉天会戦の以前の2月6日付けの駐伊アメリカ大使のマイヤーに対してそのことを書き送っている。「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」というものであった。日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。

・・・・・・・・・・・・・・・以上

マスコミ報道のあり方は今も変わらないですね。