(8)戦後最悪の人権侵害、拉致監禁に深く関わった人たち。ー伊藤芳朗弁護士の陳述書よりー

(5)全国弁連から宮村氏を排斥

そのあとはどうされたのですか?

伊藤弁護士:  「青春を返せ裁判」からは身を引いたものの、私はその後も全国弁連の活動を続けました。そして、宮村氏の活動の実態を多くの人たちに知らせて、人々が宮村氏の悪行に巻き込まれないようにしないといけないとの衝動に駆られたことから、

「宮村氏の脱会活動が、脱会活動に名を借りた金儲けであり、実態は拉致監禁であり、棄教の強要に過ぎない」ということを知り合いの弁護士や日本基督教団の牧師など、脱会活動に関与している人たちや統一教会信者らの父兄に話しました。

金の臭いがプンプンとする。脱会のやり方が乱暴で、違法性が強い。信者の家族が私たちを頼ってきた場合、クリーンじゃない人物を紹介したら紹介責任を負わなければならない。時を同じくして、日本基督教団の牧師さんたちからも声が上がるようになりました。

宮村氏は法外なお金を取っている、やり方があまりにも乱暴だ。自分たちも宮村氏と同じように見られてしまう。あんな人物を同じ運動体に入れるべきではない。そして、私は先に述べた被害弁連のコアなメンバー、山口、飯田、渡邉、紀藤の4人の弁護士に、全国弁連から宮村氏を排斥すべきだと提案しました。94年のことだったと思います。

全国弁連に父兄から相談があった場合、脱会説得者として宮村氏を紹介しない。宮村氏ととりわけ懇意にしていた紀藤弁護士も消極的だっただろうけど、賛成しました。「宮村氏との付き合いはやめただろうね」と確認すると、「全然」といって付き合いを否定した。その結果、私が全国弁連をやめた2005年までは、宮村氏を全国弁連から締め出すことができました。

もっとも、紀藤正樹弁護士だけは宮村氏と付き合い、宮村氏から紹介される事件を引き受けていたようです。彼が、「宮村氏と付き合っていない」というのは嘘だったわけです。残念なことに、私が辞めた後、宮村氏は再度全国弁連と関わるようになったようです。

〈弁連レベルではなく、個人的に付き合っていたのは紀藤弁護士ばかりではない。私のところに、統一教会信者の妻を持つ夫から、「妻を脱会させたい。ついては脱会説得者を紹介してくれないか」という相談があった。2000年頃のことである。それで、山口広弁護士に相談して欲しいと、山口氏の連絡先を教えた。

しばらくしてから、その夫から連絡があった。「宮村氏を紹介されました。妻の本籍箱に小出浩久氏の『人さらいからの脱出』、TY氏の『監禁250日/証言「脱会屋」の全て』があり、妻はそれらを読んで、宮村氏を毛嫌いしていました。だから、宮村氏に会った瞬間、逃げ出すと思います。宮村氏じゃダメです」

この頃、私は宮村氏が全国弁連から排斥されていたことを知らなかった。伊藤弁護士の話を聞いて、全国弁連の方針に反して、同組織の代表的存在である山口広弁護士が水面下で宮村氏と連携していることを知った〉

(7)戦後最悪の人権侵害、拉致監禁に深く関わった人たち。ー伊藤芳朗弁護士の陳述書よりー

伊藤弁護士:  当時概算した結果、大体毎月300万円くらいの金額を宮村氏は得ていることが分かりました。内訳は、これから脱会説得を行う順番待ちの人が200人で、毎月200万円。残りの100万円が支援金、謝礼金です。会計報告がなされていないこともわかりました。

日本基督教団のような宗教団体が献金を募るならまだ理解できますが、宗教家ではなく、会社(株式会社タップ)の社長に過ぎない宮村氏がこうした大金を手中にすることは理解できませんでした。

今回の裁判の原告の兄、GT君は青春を返せ訴訟の原告であり、当時、宮村氏の会社に勤めていました。それで、彼に「どんな会社なのか、どんな業務をしているのか」と質問したことがある。ところが、口ごもって、きちんと説明してくれませんでした。

宮村氏にはどうしても不透明なことが多すぎるという印象を持ちました。そうしたことから、宮村氏への不信感は決定的になりました。それで私は山口広弁護士に対して「一緒に(反統一教会)運動をする上で、会計が不明朗だと後々問題になるかも知れないから、宮村さんに会計報告を求めたほうがいいのではないか」と話し、会計報告を求めました。

そうしたところ、宮村氏の私に対する攻撃が激しさを増すようになりました。それも、宮村氏が直接私に対して攻撃するのではなく、原告団の中で最も宮村氏の言いなりになってしまった元信者らを使っての攻撃でした。例えば、こうした元信者らは、「伊藤弁護士を弁護団から外してもらわないと、自分たちはやめる」と言い出し、私が何か事務連絡をする度に、それに対して猛抗議をするようになりました。

また、原告団の連絡網を私が作成して配布したところ、ある元信者が、「個人名を勝手に書いてばらまいた」と言った批判をしてきました。原告団を結成して裁判闘争を共闘している以上、原告団全員の名前が分かっていることは当たり前のことですが、いくら説明しても、「弁護士としてあるまじき行為だ」といった抗議を一々私の事務所に電話や文書でしてきたり、「伊藤弁護士はおかしなことをしている」と言いったことを頻繁に言いふらしたわけです。

そこで私は、これ以上私が「青春を返せ裁判」に関わると裁判全体にとってマイナスになると判断し、原告らの代理人を辞任することにしました。オウム騒動の前でしたので1994年のことです。

辞任すると同時に、原告全員に宮村氏のことを糾弾する内容の文章を送りました。このとき私を支持してくれた何人かの原告らは、宮村氏のやり方に抗議して訴えを取り下げ、共に裁判から撤退しました。担当していたT君やNさんを含め約10人はいたように記憶しています。

裁判の途中で、訴えを取り下げた原告は17人にのぼります。

伊藤弁護士:  先にもは話したように、「伊藤弁護士を弁護団から外してもらわないと、自分たちはやめる」と言って、実際にやめた人もいます。また、私とは関係なく、宮村氏と衝突して裁判から離れた人もいたはずです。