今注目の日本共産党について考える(2)。戦後日本共産党「平和革命」と「暴力革命」の内部抗争。

戦後の日本共産の動向について、ウイキぺディアによれば、

戦後、日本共産党は「愛される共産党」というキャッチフレーズで平和革命や議会主義を打ち出します。1946年2月に開催された党大会で「日本共産党は、現在進行しつつある、我が国のブルジョア民主主義革命を、平和的に、かつ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とする」(平和革命論)と宣言します。1946年4月の第22回衆議院選挙では5議席獲得しました。この時の日本国憲法制定時の採決では、天皇制の存続による民主化の不徹底や、自衛権放棄による民族独立への危惧などを理由に反対します。第23回衆議院選挙では4議席獲得、1949年の第24回衆議院選挙では35議席298万票を獲得、東京都区内の7選挙区全てで当選を果たすとともに、地方でも多くの議席を獲得します。

ところが1950年1月6日、突然コミンフォルムから日本共産党の掲げる平和革命路線は“日本人民を欺く論理であり、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない”と批判されることとなりました。1950年6月25日に朝鮮動乱が勃発したことを考えると朝鮮動乱に合わせて日本共産党に武装闘争路線を強要したものと推測されます。(※コミンフォルム:共産党・労働者党情報局。1947年ソ連をはじめとするヨーロッパ9カ国の共産党が設立した情報交換、活動調整の為の連絡機関。ソ連共産党の指導下にあったが1956年解散。デジタル大辞泉より)

ここで日本共産党内では考え方の相違から2つのグループの内部抗争が始まります。野坂参三や徳田球一などの「書簡派」と宮本顕治らの「国際派」です。「書簡派」はコミンフォルムの批判に対し“日本の情勢を十分考慮していない”と反論し平和革命路線の正当性を主張。一方の宮本顕治率いる「国際派」はコミンフォルムの批判を受け入れるべきという立場で、武装闘争路線を支持するグループです。この内部抗争は、スターリンや毛沢東の指導によって「書簡派」は方針を転換し、分派活動と批判された宮本ら「国際派」は自己批判して「書簡派」主導下の党戦列に復帰することとなります。日本共産党の熾烈な内部抗争は終結し、1951年10月には第5回全国協議会を開催し「51年綱領」とともに、「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」と題する軍事方針武装行動綱領を打ち出すことになります。以後、日本共産党は火炎瓶を用いた武装闘争に突入し、殺人事件や騒擾事件を引き起こすことになります。野坂参三は中華人民共和国に亡命し地下放送で日本国内の武装闘争を指示しました。練馬事件、白鳥事件など様々な非合法活動が行われ、また血のメーデー事件、火炎瓶事件など多数の武装闘争・騒乱事件が発生しました。

しかし、このような日本共産党の非合法活動は、国民から非難されるところとなり、1952年第25回衆議院選挙において、日本共産党の公認候補全員が落選し獲得議席はゼロとなりました。

さらに1952年には破壊活動防止法(破防法)が制定され、公安調査庁は発足当初から一貫して日本共産党を調査・監視対象に指定しています。

1953年、朝鮮戦争休戦。

1955年7月、日本共産党は第6回全国協議会を開き武装闘争路線の放棄を決議します。またこの大会では志賀義雄、宮本顕治らの旧国際派が主導権を握り、旧書簡派の野坂参三は第一書記となります。

以上です。

これらの事実から分かるのは、戦後の共産党が「分裂した」というのは事実ではないということです。「書簡派」「国際派」という名前からしても分かりますように単なる党内の主導権争い・抗争に過ぎません。「書簡派」、「国際派」の2つのグループはスターリンや毛沢東の指導により内部抗争を 終結させ、ともに武装闘争に突入して行ったのですから。念のために国語辞典で調べますと「分裂」とは一つにまとまっていたものがいくつかに分かれることという意味です。「分裂」ではなく「内部抗争」ですね。「内部抗争」を「分裂」にしたい思惑はなんなのでしょうかね。ここに重大な陰謀が隠蔽されているということでしょう。コミンフォルムの批判を受け入れたかつての「国際派」は、かつての平和革命論の「所管派」に今は衣がえしていますが、「国際派」は今も共産党に内在していると考えるのは極めて妥当です。