今、注目の共産主義について考える(74)。北鮮帰還事業(4)。「苦情処理委員会」の設置断念は最悪の判断。

2ヶ月に及ぶ日鮮交渉の障害となった2つ目の問題は「苦情処理委員会」の設置についてだった。苦情処理ということは朝日新聞によれば「帰りたいか、帰りたくないかという、はじめに表明された意思が、あとで文句が出て変更されることだ」ということのようです。

日本側は当初「『脅迫』とか『錯誤』とかによって本人の意思が正しく表明されなかった場合『苦情』を取り上げることによってのみ正しい本人の意思が貫かれる」として、苦情処理委員会の設置を主張していました。これに対して北朝鮮は「本人が本人の申請に苦情をいうハズはない」として、日本側の提案を断固として拒否し続けてきました。朝日新聞は「一般論で言えばまったくその通りだ」と北朝鮮を擁護し、「論争のタネになった」と日本政府を批判しています。

もし苦情処理委員会が設置されていたら、北朝鮮に渡ったものの、期待を裏切るものであれば、苦情処理委員会に申し出て改善を図ったり、最終的には日本に帰国する道も開けたはずであります。しかしその苦情処理委員会の設置をしなかった。

昭和34年6月9日の朝日新聞によれば「北鮮の希望認める、苦情処理、葛西代表に訓令」との見出しで「ジュネーブでの北鮮帰還問題の交渉で最後の問題点となった『苦情処理』について、外務、厚生両省、日赤などの関係者は8日午後外務省で検討した結果、北鮮側ものみうるような日本側の最終態度を決め、同日ジュネーブの葛西日赤代表に訓令した」ということです。

北朝鮮は帰還した人が全員、苦情処理委員会に駆け込むことが分かっていたので、苦情処理委員会の設置を頑なに拒否し、妥結を急ぐ日本は結局北朝鮮の主張を全面的に受け入れることとなってしまったようです。

民団幹部が言うように帰還とは名ばかりで、実質は『強制送還』となってしまった。この結果、一度帰還すると苦情を申し立てるところもなく、二度と日本に帰ってこれない帰還となってしまったのである。これを強制送還と言わずしてなんと言うのだろうか。

朝日新聞が喜んだこの日鮮合意によって、帰還事業は人道とは縁もゆかりもない、人権侵害事件へと変質することになってしまったのである。

今、注目の共産主義について考える(73)。北鮮帰還事業(3)。北朝鮮に揺さぶられ、譲歩を重ねた最悪の交渉。

昭和34年5月26日の朝日新聞を見ると、「北鮮声明ー日赤案、全く拒否、国際委介入のめぬ」との大見出しで「北朝鮮が依然として赤十字国際委員会の実務参加並びに苦情処理委員会設置に絶対反対の強い態度を明らかにしたからである」と説明しています。

約 2ヶ月に及ぶ日鮮会談での課題は大きく2つあったことが分かります。

1つは、国際赤十字委員会(国際委)の帰還事業で果たす『役割』についてです。昭和34年6月11日の朝日新聞によれば、「大体、北鮮側の基本的態度は、帰還の具体的方法を討議するにあたって、国際委というような第三者の介入は必要ないということだった。直接の責任を持つ日赤と北鮮赤十字が話し合って決めれば、こと足りると考えていたのだ」とのこと。

さらに「だから北鮮は認めるにしても国際委の『介入』をできるだけ有名無実のものにしたいと考えたのだろう。『管理』『指導』に至っては、はじめから問題にされていなかったわけだ」と朝日の主張とも取れる記述がなされています。当初の日本の提案は「国際委の介入の範囲を『管理』『指導』『助言』の三本柱」としていました。ただし朝日新聞はこれを「外務省の高姿勢」だと批判していました。朝日らしいですね。

昭和34年5月27日の朝日新聞は「国際委の除外を求む、北鮮強行態度譲らず。日本が新提案出さねば終局」と報じていました。

昭和34年6月2日の朝日新聞、「日本の新提案検討、国際委介入『積極助言』だけ」との見出しで報じ、日本が北鮮に大きく譲歩したことを伝えています。

朝日新聞は、日鮮の交渉を長引かせたのは日本政府の高姿勢だと批判し、「しかし、ネバったおかげがなくもなかった。北鮮赤十字に『国際委の助言』を認めさせたことである」と皮肉っています。

もし、日本政府がズルズルと妥協しないで、日鮮会談で国際赤十字委員会の役割を『管理』『指導』『助言』と規定できていれば、帰還事業は戦後最大の人権侵害事件とはならなかったことでしょう。なぜなら管理・指導・助言の役割のなかで、国際赤十字委員会が地獄のような北朝鮮の国内事情を知ることになれば、帰還事業は中止となっていたことでしょう。北朝鮮が帰還事業を成功させるには、「国際委という第三者の介入」を阻止せざるを得ない、北朝鮮の譲れない事情があったということです。

日本政府の妥結ありきの交渉態度が、結局譲歩に譲歩を重ねることになり、当初の日本案にあった赤十字国際委の『管理』『指導』という役割を除外し、『助言』のみにしたことが、帰還事業を人権侵害事件にしてしまったと言えます。当時の民団幹部が言った「帰還事業ではなく、強制送還だ」との指摘は正しかった。そしてそのことが現実となった言えるのではないでしょうか。