昭和34年5月26日の朝日新聞を見ると、「北鮮声明ー日赤案、全く拒否、国際委介入のめぬ」との大見出しで「北朝鮮が依然として赤十字国際委員会の実務参加並びに苦情処理委員会設置に絶対反対の強い態度を明らかにしたからである」と説明しています。
約 2ヶ月に及ぶ日鮮会談での課題は大きく2つあったことが分かります。
1つは、国際赤十字委員会(国際委)の帰還事業で果たす『役割』についてです。昭和34年6月11日の朝日新聞によれば、「大体、北鮮側の基本的態度は、帰還の具体的方法を討議するにあたって、国際委というような第三者の介入は必要ないということだった。直接の責任を持つ日赤と北鮮赤十字が話し合って決めれば、こと足りると考えていたのだ」とのこと。
さらに「だから北鮮は認めるにしても国際委の『介入』をできるだけ有名無実のものにしたいと考えたのだろう。『管理』『指導』に至っては、はじめから問題にされていなかったわけだ」と朝日の主張とも取れる記述がなされています。当初の日本の提案は「国際委の介入の範囲を『管理』『指導』『助言』の三本柱」としていました。ただし朝日新聞はこれを「外務省の高姿勢」だと批判していました。朝日らしいですね。
昭和34年5月27日の朝日新聞は「国際委の除外を求む、北鮮強行態度譲らず。日本が新提案出さねば終局」と報じていました。
昭和34年6月2日の朝日新聞、「日本の新提案検討、国際委介入『積極助言』だけ」との見出しで報じ、日本が北鮮に大きく譲歩したことを伝えています。
朝日新聞は、日鮮の交渉を長引かせたのは日本政府の高姿勢だと批判し、「しかし、ネバったおかげがなくもなかった。北鮮赤十字に『国際委の助言』を認めさせたことである」と皮肉っています。
もし、日本政府がズルズルと妥協しないで、日鮮会談で国際赤十字委員会の役割を『管理』『指導』『助言』と規定できていれば、帰還事業は戦後最大の人権侵害事件とはならなかったことでしょう。なぜなら管理・指導・助言の役割のなかで、国際赤十字委員会が地獄のような北朝鮮の国内事情を知ることになれば、帰還事業は中止となっていたことでしょう。北朝鮮が帰還事業を成功させるには、「国際委という第三者の介入」を阻止せざるを得ない、北朝鮮の譲れない事情があったということです。
日本政府の妥結ありきの交渉態度が、結局譲歩に譲歩を重ねることになり、当初の日本案にあった赤十字国際委の『管理』『指導』という役割を除外し、『助言』のみにしたことが、帰還事業を人権侵害事件にしてしまったと言えます。当時の民団幹部が言った「帰還事業ではなく、強制送還だ」との指摘は正しかった。そしてそのことが現実となった言えるのではないでしょうか。