(2)戦後最悪の人権侵害、拉致監禁に関わる人たち。ー伊藤芳朗弁護士の陳述よりー
伊藤芳朗弁護士の証言
(1)統一教会問題と関わるようになった経緯
4年前の2008年に取材させていただきました。重複する質問もあると思いますが今日(2012年7月7日)は改めていろいろお話しを聞かせてください。まず、統一教会に関わるようになった経緯を説明してください。
伊藤弁護士 弁護士になった87年に、日弁連から統一教会の被害相談をやるので手伝ってくれと言われたのがきっかけでした。被害者発掘のいわゆる110番活動です。日弁連会館に出向くと、霊石愛好会のおばさんたち(統一教会の婦人教会員)が会館をぐるりと囲んでロックアウトしていた。相談者を会館に入れないようにするためです。相談会場で電話を取ると無言電話。終日、無言電話の嵐で、相談電話をほとんど受け付けることができませんでした。
その後、110番活動を中心的に担っていた山口広弁護士(今回の裁判の被告代理人)や東澤靖弁護士から「被害弁連(全国弁連の東京地区の組織)を手伝ってくれないか」とリクルートされました。それに応じた一人が私でした。
それ以降、被害弁連のメンバーとなって、被害者の相談に応じたり、統一教会の元信者からの献金返還請求の業務を行うようになりました。
といっても、統一教会の問題にはそれほど熱心なほうではなく、被害弁連から回されてきた事件をこなすといった程度でした。
私が弁護士になったのは、非行少年の問題をやりたかったからです。弁護士になる前から日弁連の少年法改正対策本部に出入りしていまして、弁護士になると同時に、東京弁護士会の少年法改正対策、今の子どもの人権と少年法に関する特別委員会に所属し、一年目から非行事件をバリバリやっていました。それに、89年に坂本弁護士一家の殺害事件が起き、オウムの問題にも取り組まなければならなかった。
東京の「青春を返せ裁判」では原告の代理人をやられていますが、それはどういう経緯からでしたか。
〈1991年4月、元信者のWK氏を団長として、40名の元信者が統一教会を被告として損賠賠償を求める「青春を返せ裁判」を提起した(東京地裁平成3年(ワ)4103事件)。その後、同年6月に12名の原告が、また、1993年4月に7名の原告が同様の事件を提起し(東京地裁平成3年(ワ)7603号事件、東京地裁平成5年(ワ)6903事件)、原告数は合計59名にのぼった〉
伊藤弁護士: 90年のことだったと思いますが、青春を返せ訴訟をやるので手伝ってくれないかと頼まれたからです。それまでは、被害弁連の集まりなどにはあまり参加していなかったのですが、いよいよということで、原告の代理人になった。私が担当したのはT君とNさんでした。私が次第に統一教会問題にどっぷりつかるようになったのは、原告たちや、原告ではないけれど、統一教会に献金等の返還請求をした元青年信者から入信の経緯を聞くと、家族関係が満たされていないという非行少年たちと共通するものがあったからです。ある種の寂しさがあり、統一教会がそれを満たすような形で、入信させていく。それで統一教会問題にのめり込むようになっていったわけです。青春を返せ訴訟は91年から始まりましたが、その頃になると私はコアな弁護士の一人になっていました。山口広弁護士、飯田正剛弁護士、渡辺博弁護士、紀藤正樹弁護士と私がコアなメンバーで、弁護団会議には毎回出席し、意見を述べるようになりました。
今も被害弁連、全国弁連で活動しているのですか
所属はしていますが、2004年にホーム・オブ・ハートという団体が「児童虐待をした」ということで、被害弁連の紀藤正樹弁護士が何人かのメンバーを児童福祉法違反・監禁で刑事告発したのですが、私はたまたま顧問先の会社社長からの依頼で被告発人側の弁護人を務めたのです。そして、実際にしらべてみると、告発された側は児童虐待など違法なことは何もしていなかったのです。現に、被告発人全員が「嫌疑無し」(一件のみ「嫌疑不十分」)で不起訴処分になっています。(後日、紀藤弁護士が告訴した名誉毀損事件も「嫌疑無し」で不起訴となっています)。「嫌疑無し」ということで、告発人側のでっち上げだったことが検察の調べでも明らかになったわけです。ただ、私はほとんど担当していませんが、民事訴訟では、「カルト宗教だと負け」という裁判所の枠組みみたいなものがあって、ことごとく敗訴していました。それで、ホーム・オブ・ハートが悪いことをしていたような印象だけが世間に残ってしまったのですが、私はこの事件を担当したことは一点も曇りがないと今でも思っています。
ところが、私がホーム・オブ・ハートの被告発人側の弁護人になった途端に、紀藤弁護士が根回しをして、私が被害弁連の会合に参加できないようにしたのです。ある日私が被害弁連の定例会に出向いたところ、代表の伊藤和夫弁護士が私を別室に連れて行き、「総意だから君はしばらく出てもらっては困る」と言われたのです。私が、「理由を言ってください」と言っても、「いや、聞く必要なない」の一点張りでした。それ以来、被害弁連の会合には参加していません。何人か私を擁護してくれた弁護士さんたちもいたそうですが、「紀藤さんがどうしても伊藤さんをさせることは許さないというので、仕方がなかった」ということでした。紀藤弁護士とはそれまでにも路線対立がありましたので、私をパージする格好の口実だったと思います。統一教会案件を担当したのもこの頃が最後になりました。