今、注目の共産主義について考える(71)。やはり「終わり」の始まりかもしれない。

3月8日の産経新聞『石平のChaina Watch』で、石平氏は中国の習近平国家主席が終身独裁者となったことについて『「新皇帝」の「即位」』と論評しています。

この中で「習氏による終身独裁の実現に対して、政権内部で、かなりの反発と抵抗」があったこと、そして「つまり習主席は『軍事クーデター』を起こしたかのようなやり方で中央委員会をねじ伏せ、自らの目的を達成した」と指摘しています。

このことについて石平氏は具体的に「まさに党内の反発と抵抗を排除するために、上述の3中全会が開かれている最中の2月27日、習近平勢力はもう一つの際どい行動に出た。その日に発行された中国人民解放軍機関紙である『解放軍報』は1面トップで『全軍と武装警察は中央の憲法改正案を断固として擁護する』との記事を掲載した。記事は解放軍と武装警察の幹部・兵士の口を借りて、国家主席任期制限の撤廃に対する軍と武装警察の支持を表明したのだ。・・共産党中央委員会が全体会議を開いている最中、軍と警察による『改憲支持の表明』は明らかに、軍と武装警察の力を持って、中央委員会の中にある反対意見の封じ込めであり、中央委員会そのものに対する軍からの恫喝であった」との事実を指摘しています。そして「習氏は実質上の『新皇帝』と化していくであろうと」述べています。

「言論の封殺」と「軍と警察による恫喝」によって確立した終身独裁権力。しかし独裁はこれで完結したのではなく、権力内部での権力闘争は果てしなく続いて行くことになるでしょう。

かって、一国の君主なり宰相なりが善政を布いて、一国を治めるにはどうすればよいかという質問に対し、孔子は「食を足し兵を足し、民之を信ず」という簡単明瞭な言葉で答えられたということです。その中の「民之を信ず」というのは「即ち、能く道徳が行き渡って、忠孝信義の念が厚く、時の為政者の誠意が一般国民に理解されて民を信ぜしむに至ったならば、これ善政である」という意味のようであります。

世界中に孔子学院を設立して、孔子の教えを世界に広めている張本人が、孔子の教えに明らかに背いていることになります。あらためて、孔子の教えを学んでいただきたいものです。

終身独裁を確立した習氏に、もし期待することがあるとすれば、かってのゴルバチョフ氏のように、共産主義独裁政権を終焉させることであります。悲惨な歴史を迎えない為にも、そう願うものであります。

 

 

今、注目の共産主義について考える(70)。中国、終わりの始まりか?

中国では、全国人民代表大会で憲法が改正され国家主席の任期制限が撤廃された。産経新聞によると主席任期撤廃案が出された時点では、ネットでの批判がそうとう拡大していたようだ。同新聞によれば「国内のインターネットでは隠語を用いて検閲をかいくぐる批判が拡大し、当局は憲法に関する議論自体を禁止する通達を出すなど言論統制を強めている」「暗黒を支持するな」「改憲案が発表された翌2月26日、湖北省・武漢大学の中国版ツイッター『微博(ウエイボ)』のアカウントに投稿された内容が話題を呼んだ。憲法改正で習近平国家主席の『終身制』に道が開かれた中国社会を『暗黒』と表現し、 反対の意思を示すよう広く呼びかけたとみられる。投稿は当局に削除された」「ネット上では、1913年に中華民国の初代大総統に就任し、その後帝政を実施しようとして失敗した『袁世凱』や、皇帝即位を意味する『登基』、歴史の逆走を意味すり『倒車』、習氏と容姿が似ているとされる『くまのプーさん』などの言葉を使った改憲への批判が広がったが、いずれもネットで検索できなくなった」ということのようです。言論の完全な封殺であります。

もし日本でこのようなことがおこれば、マスコミや国会は大騒ぎ、政権は崩壊し、その政党の支持率はゼロとなり消滅することでしょう。

そこで思い出すのは、ちょっと古い(2014年6月)話になりますが、国際エコノミスト長谷川慶太郎氏の著書に記された言葉です。「しかし、権力を自分に集中させるということは、逆に基盤が弱いからなのです。基盤が強く、しっかりとした体制が取れているのなら、自分に権力を集中させる必要はまったくありません。基盤が強ければ権力を分散できるのです。基盤を強化するために権力を集中させれば、させるほど権力は弱体化している状態なのです」と語られています。

産経新聞のこの記事を読んでいて、何か「終わり」が始まったように感じてなりません。言論の封殺を永遠に続けることはできません。中華人民共和国が誕生して今年で69年。国民の期待を裏切り、今や民心を完全に失った共産党独裁政権は、果たして建国70年を超えていくことができるでしょうか。