今、注目の共産主義について考える(82)。北鮮帰還問題(11)。日本共産党と朝鮮労働党の蜜月関係。

公明新聞2002年11月〈号外〉を続いて見ていきます。

「『蜜月』『友好』の関係が問題なのではない。問われるのは、それ故に日本共産党が北朝鮮に『迎合』姿勢をとり、北朝鮮が犯した事件や犯罪についても〝北朝鮮全面擁護〟の態度をとってきたことにある。例えば、『赤旗』では、『北朝鮮は朝鮮戦争後、国際的に問題になるような無法行為は、1960年代半ばまでありませんでした』などとつるんといい抜けているが、戦後の国際的大事件であった『朝鮮戦争』についても、14日付本紙が指摘したように共産党は『北の侵略』の事実を長く否定し続け、北朝鮮を全面擁護してきたのである。同党が北朝鮮の侵略事実を明確に表明したのは、94年に出版された『日本共産党の七十年』ではなかったか。同党は朝鮮戦争(50年6月勃発)休戦後も実に長期にわたり北朝鮮の侵略事実を否定する『重大な誤り』を犯し続けたことになるが、そのことについて同党は、国民の前できちんと自己総括・自己批判し、自らの『大失態』について反省し国民に詫びたことがあるのか。そうではなく、ご都合主義的に、以前からそうした見解をとっていたかのように、何食わぬ顔で手のひら返しに見解を変えただけではないのか」。

「また、同じく14日付本紙が指摘したように韓国大統領暗殺目的の北朝鮮武装ゲリラ事件(青瓦台事件)についても、共産党は当初『北のゲリラ』説を『デマ』と否定し、北朝鮮を全面擁護してきた。青瓦台事件とは、68年1月に韓国大統領官邸近くに現れた30人前後の北朝鮮武装ゲリラが、警察の不審尋問に対し機関銃を乱射し、通行中のバスに手榴弾を投げて逃走、不審尋問をした警察と民間人5人が射殺された事件だ。『赤旗』は『労働者、農民、学生の多様な形のたたかいの発展の基礎のうえに武装闘争に発展してきたもの』(68年1月31日付)と、この恐るべきテロを美化していた。これに対し、今回の『赤旗』記事では、やはりなに食わぬ顔で、あたかも以前からそうした見解を取ってきたかのように『これは北朝鮮の送り込んだ“武装迎撃隊”のしわざでした』と北朝鮮の犯行を認めている。しかし、これについても同党は、いつ、どこで自己総括し、きちんとした自己批判を行って、自らの『不明』『誤り』を反省し、国民に詫びたのか。やはり、これも何らやっていないのではないか。こうした欺瞞的な態度は公党として極めて不誠実・不見識ではないのか。そうした過去へのきちんとした反省・ケジメを見せずに、同党が『日本共産党は、歴史的に、北朝鮮の国際的無法行為に対するもっとも厳しい批判者でした』などど言い張るのは、それこそ『事実をねじ曲げる』ものであり国民を欺くものではないか」と激しく共産党を批判しています。

北鮮帰還事業が戦後最大の人権侵害事件になったこと。また北鮮帰還事件がその後の拉致事件につながっていったことを考えると、日本共産党の犯した罪は許しがたいものであります。

今、注目の共産主義について考える(81)。北鮮帰還事業(10)。日本共産党と朝鮮労働党の蜜月関係。

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今一度公明新聞2002年11月〈号外〉を見て行きます。ここでは日本共産党と朝鮮労働党の蜜月関係が詳しく説明されています。

「共産党はなぜ自らの歴史を偽るのか。本紙が、共産党の拉致問題への後ろ向きな姿勢の原因の一つとして、『同党が北朝鮮の朝鮮労働党とかって長く《友党》関係にあり、北朝鮮に迎合姿勢をとってきた過去と無関係ではない』と指摘したところ、『赤旗』では『これは事実を根本からねじ曲げるもの』『日本共産党は歴史的に北朝鮮の国際的無法行為に対するもっとも厳しい批判者でした』として、まるで北朝鮮と過去に友好関係がなかったかのような顔をしている。なぜ自らの過去を隠すのか。何か後ろめたいことでもあるのか。『赤旗』には、同党が『83年以降、関係断絶』と大見出しで強調しているが、それ以前は朝鮮労働党と長く『友党』関係にあり、共産主義の『兄弟党』として、日本共産党は社会党の第一次訪朝団より4年半も早い59年(昭和34年)2月に宮本書記長を団長とする訪朝団を派遣するなど、両党は頻繁に交流し、それこそ“蜜月”“密着”関係にあったことはゴマカシようがないのではないか。例えば、日本共産党と朝鮮労働党の“蜜月”ぶりを物語るものとして、66年3月に交わした両党の共同声明には、こうある。『・・日本共産党と朝鮮労働党の間の伝統的な友好と団結は・・マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義の原則に基づいて、発展し強化してきたものである』『両党代表団は・・うちやぶりがたい友好と団結の上に、相互の路線、相互の政策、相互の闘争を全面的にかつ熱烈に支持する』、日本共産党と朝鮮労働党は文字通り共産主義の“兄弟党”として社民党(旧社会党)などとも比較にならぬほど深く厚い『友党』関係を築きあってきたのである。だからこそ66年8月15日付『赤旗』には、朝鮮労働党の機関紙『労働新聞』の長大論文を掲載して〝エールの交換〟をしていたのではないか。さらにまた『赤旗』は71年まで、平壌放送の番組欄を紙面に掲載していたほどなのだ」と記載されています。