今、注目の共産党について考える(53)。共産党創立記念日(7月15日)に思う。

日本共産党の創設はいつなのでしょうか。いかなる目的をもって誕生したのでしょうか。

産経新聞出版の『日本共産党研究』を読んでみます。「日本共産党は1922年(大正11年)、旧ソ連のモスクワに本部を置く『共産主義インターナショナル』(コミンテルン)の日本支部として誕生した」ということです。1917年がロシア革命ですから、ロシア革命5年後ということになります。コミンテルンは世界を共産化することを目的に、ロシア革命2年後の1919年にレーニンによってつくられました。「当時誕生したばかりのソ連は、一国だけの革命政権が、いずれは他の資本主義諸国から包囲されてしまうことを恐れ、諸外国にも同様の革命組織が必要だと考えたのである。このため、各国支部の共産主義者たちは、コミンテルンによるモスクワからの指令と資金提供を受けて、ソ連のための工作やスパイ活動はもちろん、自国の政治体制を内部から混乱させて、いずれは自国でも革命を起こそうと考えていたのだ」(「日本共産党研究」)。

日本共産党が何を目的に誕生したのか。誕生の由来と性格がよく分かります。戦前の日本共産党はコミンテルンから資金提供を受けるとともに、一体どのような指令を与えられていたのでしょうか。「公的な指令は『テーゼ』と呼ばれ」「その『任務』を強く打ち出したのが、1932年コミンテルンが決定した『32年テーゼ』である。ここでは武力闘争による『絶対主義的天皇制打倒のためのブルジョワ民主主義革命』を明確に指示しており、これを『綱領文書』と位置付けていたのが戦前の日本共産党だった」 。「当時の日本共産党の具体的な目的は、スパイ活動を通じてソ連に情報を流し、中国大陸に進出していた日本軍のソ連侵攻を阻止することに加え、中国で進行中だった共産主義革命を支援することであり、いずれもコミンテルンが与えた『任務』だった」(「日本共産党研究」)。

戦前の日本共産党はコミンテルンの指令に基づいて忠実にその『任務』を遂行。結果、国は1925年に治安維持法を成立させ、共産主義者を取り締まるようになっていったということです。「『天皇制打倒』と『共産主義革命』という、まさに国家転覆とほぼ 同義の言葉を綱領に掲げる組織に対し、国が警戒するのも当然だった」(「日本共産党研究」)ということです。

日本共産党は今年党創立95周年として祝賀しております。革命を目的に『共産主義インターナショナル』(コミンテルン)の日本支部として誕生してからの95年間、武力をともなう活動も多々ありましたが、国民に対する一片の謝罪もありません。1922年に武装闘争による天皇制打倒、共産主義革命を掲げて日本共産党が誕生。戦後は一時愛される共産党路線に変更、しかし朝鮮動乱が勃発すると『共産党・労働者党情報局』(コミンフォルム)の指示によって再度暴力革命路線へ転換、それが失敗すると今度は「敵の出方論」に基づく革命路線に転換。このように日本共産党の戦術は国際共産主義の動向や国際情勢などによってめまぐるしく変わってきました。しかし日本共産党の目的である天皇制打倒と共産主義革命は全く変わっていません。過去を謝罪することもありません。日本共産党は95年間、目的達成のために多様な戦術を駆使しながら、一貫して革命政党であり続けているということです。「彼らは『普通の野党』ではない」(「日本共産党研究」)。

今、注目の共産党について考える(52)。昭和30年、朝日が語る真実。

日本共産党が武力革命を掲げて実際に行動を起こしたことがありました。過去の朝日新聞で探してみると、次のような記事が見つかりました。昭和30年(1955)7月7日付の朝日新聞一面トップに掲載された記事です。大見出しで「日共、戦術を転換、治安当局確認」「『軍事組織』は解体、地下党員近く一斉出現、合法活動面に進出」とあります。「治安当局は6日、日本共産党が最近重大な戦術転換を行ったとの情報を確認した。当局が得た情報によれば、日共はごく最近中央ビューロー会議を開き、Y(軍事)組織の全面的な解体と、これまで保存していた武器などを廃棄するとともに、きたる7月15日の日共創立記念日を期して、地下活動中の党員もほとんど一斉に姿を現わし、合法活動に従事することなどを決め、これをこのほど下部組織に通達した、といわれる。またこの転換については来たる15日午後5時、東京蔵前国技館で開かれる党創立33周年記念式典(都委員会主催)で公にされるものとされている。しかしこれはあくまで当面の“戦術”転換であって、武装革命方式の変更ではないと当局はみている」と、朝日新聞は一面トップでこのように伝えています。

そして昭和30年(1955)7月16日の朝日新聞は、大見出しで「全国で二千人、地下党員姿を現す。ベールを脱いだ、日共記念集会」と報じています。「日共創立集会は15日東京をはじめ全国52ヶ所(参加人員2万9千人)で一斉に開かれたが、この機会に全国の地下党員約4千5百人のうち2千人が合法面に現れたと、同夜11時治安当局は確認した。記念集会は今月末まで、さらに全国2百ヶ所で行われるので、潜行幹部と少数のものをのぞいて、ほとんどの地下党員が浮かび上がって来るものと当局はみている」と記事が続きます。写真も掲載され次のように紹介しています。「式場の幹部席、前列左から米原、宮本、春日、志賀、松本(一三)、細川の諸氏。二列目、志賀氏の左が長谷部浩、右が伊藤憲一、その右が鈴木市蔵の諸氏」とあります。「志賀氏が代表して『きょうはお盆の15日、地獄のカマのフタもあく。だからといって徳田同志ら潜行幹部は現れない』と、満場をどっと笑わせた」とあります。

これらの記事からは、日本共産党が武力革命路線を打ち出し軍事組織をつくり、非合法活動を行ってきたことへの、なんらの謝罪や反省もうかがうことができません。戦術転換を国民に印象付けるためだけのお祭りのようであります。朝日新聞が報じたように「あくまで戦術転換であって、武装革命方式の変更ではないと当局はみている」ということは、その通りだと思います。「敵の出方」によっては、戦術を再度転換して、武力革命を打ち出すということです。