今、注目の共産党について考える(47)。1989年2月18日衆議院予算委員会。破防法をめぐる不破哲三と公安調査庁の質疑。
1989年2月18日の衆議院予算委員会での質疑から一部引用。
《不破哲三》
「わが党を過去に破壊活動を行った団体と認定する根拠はどこにあるのですか」
《石山政府委員》
「平たい言い方で申し上げますが、破防法が制定されました当時はそのような社会的事情があり、それに共産党が大きくかかわっていたというふうに考え、過去に破壊活動的な暴力活動があったという認定をしているわけでございます」
《不破哲三》
「破防法制定当時と言いますと、わが党が分裂していた時期でした。破防法が成立したのは1952年で、それで我が党は、1950年から1955年まで分裂期でした。分裂した側の一方が、我が党はそのとき極左冒険主義と言って非難していますが、今日の我々にとっても肯定し得ない活動や方針をとったことは確かにあります。しかし、それは分裂した時期の分裂した一方の側の行動、路線であって、党が統一して後に明確に批判され、きっぱり破棄された問題です。だからそれを今日の、今日といいますか、分裂を克服した後の日本共産党の根拠として扱うのは極めて不当だと思います」
《石山政府委員》
「ご存知の通り共産党におきましては、昭和26年に四全協、五全協という当時の党大会に代わるべき執行機関による会合が行われて、有名な軍事方針が決定され、それが五全協、六全協へと引き継がれてまいりましたが、六全協でいわゆる極左冒険主義の反省が行われたわけであります。その際に、当時の決定によりますれば、五全協の軍事方針の決定については、一応、極左冒険主義はいかぬけれども、全体としては、これは当時の主流派、反主流派によって十分意見の統一によって行われたものだ、簡単に申し上げますれば、そのような趣旨が行われておりますので、単純な分派活動による一部の跳ね上がりだけがやったというふうな認定を実は私どもはしておらないわけでございます」
以上、質疑のやりとりを見てきましたが、
しかし、もしも1950年勃発の朝鮮動乱によって北朝鮮が韓国を完全に制圧していたならば、国産共産主義勢力のテコ入れが進み日本においても共産党による暴力革命路線が功を奏し、日本人民共和国が誕生していたことでしょう。日本共産党がこの時期、暴力革命路線を選択した背景には国際共産主義の世界戦略があったからであります。 共産党の暴力革命路線は成功する可能性があったのです。しかし、この国際共産主義の野望は世界の自由主義陣営の反撃にあい失敗しました。結果、日本共産党もいつまでも暴力革命路線を続けることができず、止むを得ず「破棄」せざるをえなかっただけであります。もし共産党による暴力革命が成功していたならば「分裂した一方の側」は、共産党の英雄になっていたでありましょう。それにしても不破哲三の「党の分裂期」という、生き延びるための誤魔化しのテクニックはすごいですね。しかし誤魔化しは誤魔化し、世間には通用しません。