六軒家川について考える

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六軒家川水門です。満潮時には周辺地域の地盤高より水位は約2メートルも高くなります。このような時に地震による液状化で堤防が崩れた場合に、地域は水没すると予測されております。さらに、そこに津波が襲ってくることも予想されます。堤防の耐震化や液状化対策が急がれますが、対策には巨額の資金が必要になります。六軒家川はいま、河川としての利水機能が 全くありません。また、六軒家川水門の維持管理や川の水質保全に多額の税金が使われております。正蓮寺川のように埋め立て、公園などに整備して、住環境の向上に役立てるべきと考えます。安全確保のための整備費用も格段に抑えることもできます。

OSAKA生涯学習雑誌「いちょう並木」10号に八州軒の記事が掲載されていました。

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奈良の春日大社といえば、誰もが知るところですが、此花区にも春日出という地名があるのをご存知でしょうか。江戸時代の中頃から、大阪湾岸の新田開発が豪商たちによって盛んに行われるようになりました。現在の此花区東部の開発は雑賀屋七兵衛により手掛けられていましたが、その作事中に現れた鹿を人夫が捕らえて殺してしまうという事件がおこります。春日大明神を崇敬していた七兵衛は、この鹿を手篤く弔い、元禄15(1702)年に完成した新田を春日出新田と名付け、それが今も地名に残ることとなりました。この新田は享保7(1722)年に食野家(めしのけ)の手に渡り、新田の管理棟兼別荘として広大な庭園を伴う屋敷が造営されました。狩野派の襖絵や変化に富んだ欄間装飾で飾られた書院や座敷、当時としては珍しい2階建ての亭を伴うなど御殿のような屋敷でした。そして明治維新後にこれを手にいれた清海(きよみ)家は、摂津、河内、和泉、山城、大和、紀伊、淡路、播磨の八州を見渡せることから、これを「八州軒」と名付けました。現在、現地には右写真の石碑と説明板しかありませんが、富岡製糸場の経営者でもあった実業家・原富太郎によって、大正4(1915)年、横浜の三渓園に移築され、現在は重要文化財「臨春閣」としてその優美な姿を伝えています。