今、注目の共産党について考える(44)猪木正道元京大教授の著書より(2)
共産党が非共産党員に対して如何なる平和主義的発言をしても、共産党の暴力性についての疑義がなくならないのは何故なのでしょうか?共産党が非共産党員に対して如何なる民主主義的発言をしても、共産党の一党独裁についての疑義がなくならないのは何故なのでしょうか?猪木先生は共産党については、その発言によって判断するのではなく、その行動によって判断しなさいと言っています。かって日本共産党は暴力革命路線に転換し国内で武装蜂起を行いました。この共産党の「行動」が共産党の真実の意図を表していると、大多数の国民がそう思っています。共産党の言葉がさらに信じられないのは、この武装蜂起の事実を認めながらも、日本共産党と関係のない「分派」が勝手にやったとして反省もしないし、国民に謝罪もしないことであります。完全に開き直っています。このように直近の歴史的事実までも歪曲する共産党の「行動」は、国民が不信感を持つに必要十分といえます。共産党のいう平和や民主主義などに関する甘い言葉は、時に罠であったり、時に自己防衛のための“保護色”なのでしょう。うかつに近寄ると大変なことになってしまいます。しかし共産主義者は何故このようなことを平然と行うことができるのでしょうか?また共産主義者は何故暴力革命をも肯定するようになるのでしょうか?猪木先生は共産主義について「マルクスの革命理論においても、プロレタリアートは理想化され、神格化され、果てはメシア化された。このように聖化され、神格化され、メシア化されたプロレタリアートこそ、共産主義に伴う暴力性妖気の第一の淵源なのだ」と指摘しています。この指摘を参考に考えれば、プロレタリアートは理想社会実現のメシア的立場にあり、プロレタリアートが主役となって抑圧階級・支配階級を打倒し、被抑圧階級・被支配階級を解放するとともに、プロレタリアートの独裁を確立することによって、永遠に支配・被支配のない、搾取・被搾取のない、無階級社会・共産主義社会が誕生し、人間の解放が成就される 。たぶんこのように共産主義者はマルクス主義を解釈しているのでしょう。一種の宗教的信念ということができます。共産主義社会の到来は歴史の必然であり、共産主義社会という絶対的善の世界が目の前にあって、それを実現する担い手がプロレタリアートであり、さらにそのプロレタリアートを覚醒させ、指導する立場で革命を成し遂げるのが共産党・共産主義者の役割であると。このような一種宗教的とも言える価値観を共産主義者は持っていること、そしてこの価値観が暴力性妖気の原因であると猪木先生は指摘しています。歴史の担い手として神格化・絶対化されることによって、プロレタリアートやその前衛である共産党には暴力革命を含めてあらゆる行為が許されるとか、歴史的役割を果たすためには手段を選ばないとか、反革命は絶対に許さないなどといった発想が生まれてくることになります。そして猪木先生は「三十年前には暴力革命の不可避性を論証することが、共産主義理論の課題であった」と述べています。