山田宏衆議院議員の質疑(1) 2014年2月20日 衆議院予算委員会、「河野談話について」

【山田衆議院議員】河野談話作成時に、その責任を負われた石原信雄官房副長官においでいただいております。ありがとうございます。当時の方々を非難するつもりで今回立っているわけではありません。何としても日本に課せられた、いわれのない汚辱を晴らしたい。こういう思いで質問に立たせていただいております。河野談話がいったいどういう経緯でどのようにできたかについてお話をいただきと思います。まず、石原元官房副長官は河野談話策定にどういう役割を果たされたのかお尋ねします。

【石原信雄元内閣官房副長官】河野談話発出の経緯について申し上げます。実は、この問題が起こりました発端は1993年、2年でしたか東京地方裁判所に従軍慰安婦と称する人たちが、自分たちへの侵害に対して、日本国政府の謝罪と損害賠償を要求する訴えを起こされた。その訴訟に関連いたしまして、当時宮沢内閣発足直後でしたけれども、日本国政府としては1965年の日韓国交正常化条約により、戦中、戦前のいろいろな問題は全て最終的に、かつ完全に決着しているということが明らかでありましたので、加藤官房長官から日本国政府としてこれに対応する余地はないという趣旨の談話を発表いたしました。これに韓国内で反発があったようですが、翌年、盧泰愚大統領になってからですが宮沢総理と盧泰愚大統領の首脳会談がソウルで行われまして、これからは過去の問題にこだわらずに未来志向で両国関係を発展させましょうという趣旨で、この会談が持たれたわけですが、実はその会談の場に従軍慰安婦と称する人たちが押しかけ、会談が静かな雰囲気でできなくなったわけです。それで従軍慰安婦問題について実態はどうだったのかということを日本政府として調査してほしいという韓国側からの要請がありまして、政府として検討した結果事実関係を調べましょうということで、初めは戦中戦後処理の問題は主として厚生省の援護局が担当していたんですが、援護局に話したところ、資料はない、戦時中の資料でしたので、非常に散失して集まらないのですが、事実関係を明らかにする必要があるので当時の厚生省だけでなく、労働省や警察庁、外務省、防衛省非常に幅広く関係が広がっていたので、最終的に、官邸の外政審議室が中心になり、各省に資料の調査の要請を行いました。その過程で、私は各省に対して出来るだけ努力して、戦時中の資料であるが集めるように要請を行いました。再三再四協力要請をしたわけですが、その結果を加藤官房長官から発表しました。それは確かに慰安所の設置だとかそれに従事する慰安婦と称する人たちの輸送あるいは衛生管理とか、慰安所の存在を前提とするような通達や連絡という文書で明らかになりました。しかし、女性たちを強制的に従事させるものは発見できなかったわけです。その段階でそういう事実関係を加藤談話として発表しましたが、その後やはり関係者が自分たちは自分の意に反して強制されたんだということを非常に強く言っておりまして、韓国側が加藤談話では収まらないので、引き続き調査しようということで官房長官が河野さんに代わり引き続き調査を行いました。しかし、アメリカの図書館まで調べたが女性たちを強制的に集めたことを裏付ける客観的なデータは見つからなかった。それで、当方としてはそういうことだけれど、韓国側が、彼女たちは意に反して強制されたと、強く訴えているので、彼女たちの話を聞いてもらいたいと、そこで話を聞くかどうかを政府として種々協議しましたが、最終的に日韓両国の将来のために、話を聞き、事態打開になるということで最終的に16人の慰安婦とされた方々から当時の状況を客観的に公正に話していただくということで、調査官を派遣して、ヒアリングを行った。その結果、募集業者の中にはかなり強引な手段で募集した、あるいは騙して連れてきたと、その過程で当時の官憲がこれにかかわった、かなり脅しのような形で応募させられたと証言する慰安婦の人たちがいまして、それらの証言内容を全部取ってきて、それを総合的に調査官から話しを聞いて、最終的な河野談話をまとめました。したがって当方の資料として直接日本政府あるいは日本軍が強制的に募集することを裏付ける資料はなかったが、彼女たちの証言から、募集業者の中にいたことは否定できない、業者に官憲等が関わったことも否定できない、ということで河野談話のような表現に落ち着いたところでございます。

【山田宏衆議院議員】今の話をお聞きしますと、官憲、日本軍が強制連行をして性奴隷にした証拠は、安倍内閣の答弁書のとおり一切ない。しかし、強制性を認めたような談話になったのは、16人の元慰安婦の韓国人の話を聞いてこの文書になったということであります。聞き取り調査が決め手となったと思いますが、この聞き取り調査ですが、先月の『正論』という雑誌に、聞き取り調査報告書の内容、まだ政府からオープンになっていませんが、この雑誌で報道されています。聞き取り調査の内容もかなりずさんで、氏名、生年月日、出身地もまともに記されていないもの、また連れて行かれた場所が軍の慰安所がない熊本、台湾、下関、大阪、ここは軍の慰安所がありませんから、軍の慰安所でないところで働かされたという証言もあり、かなりずさんだったと思います。このずさんと指摘されている調査内容を、証言をそのまま受け取って、それを河野談話に反映させたと考えていますが、証言の裏付けを取るべきだったよ思います。裁判でも証人で証言する人がいますが、しかし証言の裏付けを必ずとります。証言だけで有罪はありません。証言の裏付けは取りましたか?

【石原信雄元内閣官房副長官】16人の方の証言を日本側の担当官が聞いてそれを記録して帰ってきたわけですが、証言の事実関係の裏付け調査はしてません。

【山田宏衆議院議員】証言の裏付けを取らないで、河野談話がつくられたということであります。証言の裏付けを取らないで、なぜ、強制性と言われる、強制連行まで今言われていますが、こうなったのは、いろいろな政治配慮があった。こう考えています。今年1月1日に、産経新聞一面に「河野談話日韓で合作」、こういった報道がありますが、この内容は河野談話作成にあたって1993年7月26日から7月30日まで、16人の方々の証言をソウルで取って、発表されたのが翌月8月4日です。その間に政府は河野談話の原案の段階から韓国側にその内容を提示し、特に韓国大使館を通じてその指摘に沿って修正するなど、事実上日韓合作だったのでは、と言われています。これは当時の政府関係者、外電等でも確認していると聞いていますが、談話自体の作成をどういう言葉にしたらいいか、軍の意向を受けた業者が行っていたのを、韓国側は意向では駄目だ、もっと強制性が明らかな指示にしろ、いや指示では、そういう証拠はない、要望がギリギリというと、要望では駄目、強く請い求め、必要を意味する要請に変えなさい、というような具体的なやりとりがあり、河野談話がつくられたと報道されていますが、この内容はおおむね事実でしょうか?

【石原信雄元内閣官房副長官】この談話の原案をヒアリング結果を踏まえて外政審議室を中心に文案を作成しまして、最終的に官房長官のところで推敲して最終談話になったわけですが、過程で韓国側とどんなやりとりがあったか私は承知しておりません。

【山田宏衆議院議員】石原信雄元内閣官房副長官は承知されていない。外政審議室を中心に実際は行われていた。当時の外政審議室長は、私たち日本維新の会が参考人としてこの方もお呼びいただきたいと申し上げている谷野作太郎氏です。谷野氏にお聞きしないと、どういったやりとりがあったのかわからない、と私は受け止めております。当時の河野洋平官房長官の指示のもとに作成されていたというお話がありました。当時の河野洋平官房長官のどんな指示が、この作成にあたってあったのでしょうか。

【石原信雄元内閣官房副長官】私は河野談話を発表する直前の段階で、各省への協力要請をやっていたので、最終調整でその打ち合わせに入りました。したがって、字句で、どの部分を官房長官がどうしたということは記憶しておりません。

【山田宏衆議院議員】ここはすごく大事なところです。つまり証言だけで、裏付けを取らないで、それをもとに、もっと言えば心証でこの談話がつくられ、文言についても韓国側と綿密な調整が行われたものではないか、こういう疑惑を持たれています。こういうようなやりとりが全くなかったと言い切れますか。多少そういうことがあったと推測されると、官房副長官のところですから、韓国側がこう言っています、ああ言っています、ということが多分あったのではないか。こう思いますが、大事な点なので、そのような事前の打ち合わせがあったかどうか、やりとりがあったかどうか、それを聞いたかどうか、明確にお答えください。

【石原信雄元内閣官房副長官】ヒアリング結果を踏まえて文章を起草し、それを談話にまとめたわけでありますが、過程のどの段階でどの程度接触があったか、私は承知しておりません。いずれにしても、それを踏まえて原案が上がった段階で官房長官の最終決裁前の段階で私も拝見し議論に加わりました。したがってその前の段階で韓国側とどのような接触があったかは私は承知しておりません。ただ、この種のものをまとめる段階でなんらかの連絡や事務的なすり合わせは、あったかもしれないが、私は確認していないのでその点はお答えを控えさせていただきます。

5月17日に思う。

令和3年5月17日付産経新聞夕刊です。

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産経新聞5月17日夕刊一面の下段にこの記事が載っていました。橋下氏の市長時代を思い出しました。何事にも真剣勝負で臨んでいた元橋下市長の姿を思い出します。毎日のように記者会見を行い、また記者からの質問が尽きるまで記者会見に応じることも多かったと記憶しています。以前の市長では考えられなかったことですね。新聞やテレビなどのメディアに、結果は別にして、情報を市民に伝える重要な役割を期待していたからでしょう。この姿勢は変わらなかったですね。また、各区で行うタウンミーティングも以前の大阪市ではなかったことです。区民ホールなどの室内だけでなく、地域の公園や街角で行う野外の集会でも、ほんとうに何百人という大勢の人が集まりました。動員ではなく、橋下氏の話を聞くために、自然に集まってこられるのです。このような光景は私も初めて見ました。ここでも市民からの質問には丁寧に応えて説明していたのを思い出します。もちろん理解してもられないことも多々ありましたが、とにかく大阪の将来について語る橋下氏の話は「情熱的」で、その活動力はまさに「破格」でした。

橋下氏の活躍は、破産の危機に瀕していた大阪を再生した、まさに原動力であったことは間違いありません。