中国共産党政府との関係を見直そう(132)。「血塗られた」中国共産党の歴史。

石平著『中国共産党 暗黒の百年史』(飛鳥新社)についての対談が8月11日の産経新聞「ぶっちゃけ正論」に掲載されていました。中国共産党の実像を赤裸々に語っていますが、驚愕の地獄社会ですね。

小島氏:  一読して「血塗られた」としか形容しようのない歩みに慄然としました。凄惨かつ大規模な虐殺行為を繰り返している。

石平氏:  ・・・ロシア革命の指導者でソ連という社会主義国家を建設したレーニンは、労働者階級による独裁国家をつくるには暴力が不可欠だという「暴力革命」論を唱えた。それが中国共産党になると、暴力とは人を殺すことだ、となったんです。

小島氏:  本書は「殺人革命」と名付けています。

石平氏:  中国共産党は1949年10月、中華人民共和国を建国します。すると翌50年には「土地改革」と称して地主200万人を殺害、51年には「反革命分子鎮圧運動」で地域の素封家や有力者71万人を人民裁判にかけて銃殺します。中国共産党の100年とは、地主、反革命分子、裏切り者、権力闘争による粛清、「大躍進」政策失敗による餓死、文化大革命など、あらゆる形で国民を殺戮してきた歴史です。いわゆる少数民族のジェノサイドも行なってきました。

小島氏:  毛沢東の有名な言葉に「政権は銃口から生まれる」がありますが、恐ろしい実態ですね。

石平氏:  彼らは銃口から生まれた政権を守るのも銃口だと考えています。現在でも、政権を守れるのは暴力だけだという認識です。

 

中国共産党政権下での国民支配はまさに地獄としか表現のしようがありません。この「血塗られた」中国共産党100周年の記念式典が7月に行われました。日本から多数の政治家が祝電を送っていたということですが、背景に何があるのか?政治家としての見識が問われます。

中国共産党政府との関係を見直そう(131)。共産主義社会はこの世の地獄だ。

産経新聞に連載中の「石平氏の『話の肖像画』❿」(8月10日)より引用させていただきます。石平氏が中学生時代、文化大革命のときの出来事だったそうです。

《成都などの都市では「反革命分子」などと決めつけられた人たちの公開処刑が日常的に行われていた》

「反革命分子」「階級の敵」などといっても、ほとんどが言いがかりや、取るに足らないことがきっかけです。それに対して、当局が公判大会を開き、無理やり「罪」をデッチ上げるのです。僕が覚えているのは、公開処刑になったあるおばあさんのこと。成都の中学校に通っていたときです。近所でゴミ拾いなどで、かろうじて生活していたおばあさんが処刑された理由は、何と、ダイコンを毛沢東の写真が載っている新聞紙で包んだことでした。公判大会は、国慶節、共産党創建の日などの前に行われます。成都ではそんな日に数十人もの人が処刑されました。自分の名前の上に死刑囚を意味する赤で大きなバッテン印をつけられた看板を、首からぶら下げた罪人はトラックの荷台に乗せられ、人民たちが見守る中をゆっくりと進んでいくのです。見守る群衆には、恐怖心とともに、異常な興奮が巻き起こっていたように思います。古代ローマ時代の為政者は、民衆をコントロールするすべとして「パンとサーカス(娯楽)」を与えたと言いますが、中国共産党の公開処刑も、それと同じ効果を狙っていたのではないでしょうか。つまり、共産党に楯突いたらこうなるぞ、という恐怖心を植え付けるとともに、閉塞した日々の暮らしのストレスを発散させる手段、“ガス抜き”として公開処刑の殺人ショーを行なっていた。国慶節の前には特別な豚肉の配給などもあったので、まさに「パンとサーカス」でした。

今の中国国内の実情はあまり報じられることがありません。それでも伝えられる数少ない情報によれば、文化大革命の時代も今も変わっていないようです。世界は中国共産党の変化を期待し、惜しみなく援助を行なってきたのですが、期待はみごとに裏切られました。それは共産主義について無知だったからとしか言えません。共産主義は常に悪魔のように凶悪です。