謎の男「吉田清治」について(2)。百田尚樹氏『「吉田清治」なる人物はついにその正体を明らかにすることなく、消えていったのです。いったい彼は何者だったのでしょう』

百田尚樹著『今こそ、韓国に謝ろう、そして「さらば」と言おう』(飛鳥新社)より、(1)に続いて紹介します。

当時の朝鮮は日本に併合されていましたが、朝鮮半島は貧しく、多くの人が日本に密航を企てました。そして日本名を名乗って生活したのです。しかし当時、日本国内では朝鮮人は差別されていました。特に仕事や結婚では朝鮮人ということは大きなハンデでした。それだけに戸籍上で日本人になるのはいろんな意味で都合がよかったのです。

余談ですが、プロレスで有名な力道山も戦前、相撲部屋に入門するとき、日本人の養子になり、日本人戸籍を取っています(戦後、空襲で戸籍が焼失して復籍する時、力道山は役場に届ける祭に、「養子ではなく実子」と偽ったので、戸籍上は両親が日本人ということになっています)

話を吉田清治に戻しましょう。24歳の時に養子縁組した5歳年下の朝鮮人男性は、あるいは「吉田清治」に背乗りした男の実の弟だったのかもしれません。まず「吉田本人」が背乗りして日本人になり、その後、弟を養子にして、彼も日本人にするーーそう考えると、24歳の男が5歳下の朝鮮人男性を養子にしたという話は大いに頷けます。

そして「吉田清治」がもともと朝鮮人であったとするならば、例の証言も理解できます。普通の感覚で考えると、「泣き叫ぶ朝鮮人女性を大量に慰安婦にした」というまったくのデタラメを、しかも日本民族に最大の恥辱を与えるような証言など、日本人にはできません。ですが、「吉田清治」が元朝鮮人で日本人に背乗りした男だと考えると、不可解な部分が納得できるものになります。

2016年の夏、ジャーナリストの大高未貴氏が月刊『新潮45』で、吉田清治の長男へのインタビュー記事を発表しました。長男が提供した資料によれば、吉田清治は大正2年(1913年)に福岡県鞍手郡宮田町大字長井鶴生まれとありますが、同窓会名簿の「死亡」の記載の謎や養子縁組の真相などが明らかになったわけではありません。

吉田は全国の反日団体などから招かれ、「朝鮮人女性を強制的に慰安婦にした。申し訳なかった」と涙ながらに語り、そのたびに謝礼をもらっていたと言います。生粋の日本人でありながら、日本を貶めるためにありもしない捏造記事を書いたり、嘘ばかり述べるジャーナリストや文化人、あるいは元兵士たちはいくらでもいますから、吉田清治もそんな反日日本人の一人だったのかもしれません。あるいは「職業的詐話(さわ)師」であり、ただ単に金のために嘘をついただけかもしれません。

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吉田が忽然と姿を消してから16年後、2014年になって、やっと消息が明らかになりました。なんと2000年に亡くなっていたのです。

1931年の商業学校の卒業名簿には「死亡」と書かれ、その後、40年間、謎の人生を送り、1970年代に突如として現れ、日本という国をとことん貶めた、この「吉田清治」なる人物はついにその正体を明らかにすることなく、消えていったのです。いったい彼は何者だったのでしょう。

謎の男「吉田清治」について(1)。百田尚樹氏『実は「吉田清治」なる人物は、死亡していた吉田雄兎氏に背乗りした人物ではないかと囁かれていました』

百田尚樹著『今こそ、韓国に謝ろう、そして「さらば」と言おう』(飛鳥新社)で吉田清治について語られていましたので、少し長くなりますが、ここで紹介したいと思います。

吉田清治は本名を吉田雄兎と言います。吉田清治はペンネームです。生まれたのは1914年(大正3年)ということですが、実はこれも詳しいことはよくわかっていません。本人は山口県と言っていますが、福岡県出身という情報もあります。

また1930年代から1970年代まで、彼の経歴が一切わからないのです。というのも彼が語る経歴(働いていた会社や組織)を調べていっても、そこには吉田がいたという記録がどこにもないからです。また、朝日新聞の記事で一躍有名になったにもかかわらず、吉田清治の若い頃を知っているという人物はまったく出てこなかったのです。

法政大学を出たと自称していますが、大学には吉田雄兎が在籍した記録はありません。戦争中、刑務所に二年間服役していたらしいですが、何の罪かもよくわかっていません(彼自身の証言はころころ変わっています)。

さらに奇妙なことがあります。吉田雄兔は1937年、24歳の時、19歳の朝鮮人男性を養子にしているのです。二人の間にどんな関係があったのかはわかりませんが、常識的に考えて、24歳の独身男性が19歳の男性を養子にするというのは不自然な話です。その養子縁組した息子は翌年に戦死した、と吉田自身が語っていますが、歴史学者の秦邦彦氏の調査では、その人物は1983年に亡くなっていることがわかっています。

吉田雄兎に関することで最も不可解なことは、彼が卒業したとされる門司市立商業学校の1931年(昭和6年)の卒業者名簿には、「吉田雄兎  死亡」と記されていることです。1931年といえば、吉田が生きていたとするなら17歳です。卒業者名簿に生きている人間が死亡と書かれるなんてことは滅多にありません。名簿の記載が正しいとするなら1931年時点で吉田雄兎なる人物はこの世にいなかったことになります。

そして52年後、それまで歴史の中に消えていた人物、吉田雄兎が突如、姿を表すのです。「済州島で泣き叫ぶ朝鮮人女性を奴隷狩りのようにして慰安婦にした」という証言を引っさげてーーー。

いったい、これはどういうことなのでしょうか。

実は「吉田清治」なる人物は、死亡していた吉田雄兎氏に背乗りした人物ではないかと一部では囁かれていました。「背乗り」は「はいのり」と読みます。ある人物の身分や戸籍を乗っ取り、その人物にすり替わってしまうことをいいます。かつて旧ソ連のスパイや北朝鮮の情報員がよく使った手です。

吉田雄兎に背乗りした人物は朝鮮人だったのかもしれないと言われています。確かにそう考えると、いろんなことで辻褄が合ってきます。