今、注目の共産党について考える(48)。1989年2月18日衆議院予算委員会。破防法をめぐる不破哲三と公安調査庁の質疑(2)。

1989年2月18日の衆議院予算委員会での質疑より一部引用。

《不破哲三》

「じゃ、将来のことを聞きましょう。将来、我が党がそういう危険があるとあなた方が考える根拠はどこにあるのですか」

《石山政府委員》

「昭和36年の発表されました党の綱領の中に、いわゆる将来に向けて共産党の指針とも言うべき政治方針が示されておりますが、それと並びまして、その当時いろいろ発表されました党の文献等の中に、いわゆる敵の出方論ということがございます。その敵の出方論ということが、いわゆる民主社会主義に基づいて、あくまで議会主義を貫いて平和的な革命を行われるという政治志向を持っておられるのか、あるいは時と場所により敵の出方、つまり権力側の出方によっては非平和的な手段にも訴えることがあるのか、この辺が十分に解明できておりませんし、20年、30年の問題ではなくて、遠い将来共産党が政権近しと思われる時分になりましたならば、どういう方向に出られるかがなお疑念でございますので、調査を継続しているわけでございます」

以上、質疑応答の一部を紹介しました。敵の出方論が問題視されています。

この敵の出方論ですが、「どういう手段で革命が達成できるかは、最後的には敵の出方によって決まることである」というのが共産党の敵の出方論です。日本共産党は敵の出方論について「人民の政府ができる以前に、反動勢力が民主主義を暴力的に破壊し、運動の発展に非平和的な障害をつくりだす場合には、広範な民主勢力と民主的世論を結集してこのようなファッショ的攻撃を封殺することが当然の課題となる」との見解を示しています。社会主義社会を建設することは正義だから、これに反対する個人や集団は「障害」「ファッショ的攻撃」とみなされるということです。また社会主義社会建設のために、個人が所有する土地、財産、生産手段などは素直に黙って共産党に差し出すことが求められます(生産手段の社会化)。これに文句を言ったり、ましてや抵抗などすれば、そういう人間や集団は社会主義建設の敵、歴史の反動とみなされて、これを暴力的に攻撃し封殺するということのようです。このように敵の出方論は決して暴力・武力を否定したものではありません。社会主義社会建設のためには、国際共産主義と連携してまでも、最後的に国民の権利である表現の自由や結社の自由などの基本的人権を暴力で封殺するという「敵の出方論」は、民主主義とは正反対の考えで、とうてい容認できるものではありません。共産党のいう「民主」「平和」の概念は、同じ言葉でも我々の認識とは全く違っています。

ウイキペディアの『敵の出方論』の中で国の対応という項目に次のように書かれています。『「平和革命になるかどうかは敵の出方による」に着目し、公安調査庁は、日本共産党が武装闘争の危険性を残していると判断し、2016年現在も調査対象団体から外されておらず、第3次安倍改造内閣においても破壊活動防止法の調査対象であるという答弁書を閣議決定している』と記しています。この政府答弁書においては「いわゆる敵の出方論に立った暴力革命の方針に変更はないものと認識している」「日本共産党は、現在においても、破壊活動防止法に基づく調査団体である」との政府の見解が記されています。

 

今、注目の共産党について考える(47)。1989年2月18日衆議院予算委員会。破防法をめぐる不破哲三と公安調査庁の質疑。

1989年2月18日の衆議院予算委員会での質疑から一部引用。

《不破哲三》

「わが党を過去に破壊活動を行った団体と認定する根拠はどこにあるのですか」

《石山政府委員》

「平たい言い方で申し上げますが、破防法が制定されました当時はそのような社会的事情があり、それに共産党が大きくかかわっていたというふうに考え、過去に破壊活動的な暴力活動があったという認定をしているわけでございます」

《不破哲三》

「破防法制定当時と言いますと、わが党が分裂していた時期でした。破防法が成立したのは1952年で、それで我が党は、1950年から1955年まで分裂期でした。分裂した側の一方が、我が党はそのとき極左冒険主義と言って非難していますが、今日の我々にとっても肯定し得ない活動や方針をとったことは確かにあります。しかし、それは分裂した時期の分裂した一方の側の行動、路線であって、党が統一して後に明確に批判され、きっぱり破棄された問題です。だからそれを今日の、今日といいますか、分裂を克服した後の日本共産党の根拠として扱うのは極めて不当だと思います」

《石山政府委員》

「ご存知の通り共産党におきましては、昭和26年に四全協、五全協という当時の党大会に代わるべき執行機関による会合が行われて、有名な軍事方針が決定され、それが五全協、六全協へと引き継がれてまいりましたが、六全協でいわゆる極左冒険主義の反省が行われたわけであります。その際に、当時の決定によりますれば、五全協の軍事方針の決定については、一応、極左冒険主義はいかぬけれども、全体としては、これは当時の主流派、反主流派によって十分意見の統一によって行われたものだ、簡単に申し上げますれば、そのような趣旨が行われておりますので、単純な分派活動による一部の跳ね上がりだけがやったというふうな認定を実は私どもはしておらないわけでございます」

以上、質疑のやりとりを見てきましたが、

しかし、もしも1950年勃発の朝鮮動乱によって北朝鮮が韓国を完全に制圧していたならば、国産共産主義勢力のテコ入れが進み日本においても共産党による暴力革命路線が功を奏し、日本人民共和国が誕生していたことでしょう。日本共産党がこの時期、暴力革命路線を選択した背景には国際共産主義の世界戦略があったからであります。 共産党の暴力革命路線は成功する可能性があったのです。しかし、この国際共産主義の野望は世界の自由主義陣営の反撃にあい失敗しました。結果、日本共産党もいつまでも暴力革命路線を続けることができず、止むを得ず「破棄」せざるをえなかっただけであります。もし共産党による暴力革命が成功していたならば「分裂した一方の側」は、共産党の英雄になっていたでありましょう。それにしても不破哲三の「党の分裂期」という、生き延びるための誤魔化しのテクニックはすごいですね。しかし誤魔化しは誤魔化し、世間には通用しません。