朝日は言論で勝負を。『民主主義の根本は、自由なる言論の闘いによって、より強化される』櫻井よしこ氏。

他者を批判するのに異常な特技(例えば珊瑚礁を自ら傷つけ写真に撮り、誰がこんなことをするのかと、環境保護を訴えたこともありました)を持つ朝日は、自身が批判されると言論人としての謙虚さをどうも忘れてしまうようであります。いつも朝日は「言論には言論で」とか「対話によって解決すべきだ」とか主張していますが、こと自身のことになると様子が異なってきます。自身が批判されると、感情的になるのか、相手を恫喝したり、訴訟に持ち込んだりして、「言論には言論で」とか「対話で解決すべきだ」といういつもの主張を完全に忘れ去ってしまうようです。「対話や言論」という価値観は他者に求めるものであって、自身は恫喝や賠償、訴訟に訴えても構わないという理解不能な価値観を持っているのでしょうか。12月7日付の産経新聞記事に、「『徹底検証森友・加計事件』朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」(飛鳥新社)の著者小川栄太郎氏に対して、朝日新聞社は「弊社の名誉・信用を著しく傷つける不法行為」だとして謝罪や訂正・賠償を求めているという記事が載っていました。言論で朝日を批判することは不法だという主張のようです。この中で小川氏は「法的構成が不可能な言いがかりで一個人を恫喝するのではなく、言論には言論で勝負していただきたい」と朝日に呼びかけているということです。当然のことだと思うのですが、どうも朝日は、『虚報』『捏造』という批判を受けると人格が変わるようであります。言論機関で、しかも圧倒的な言論手段を持っているのですから、『虚報』『捏造』でないのならば、言論で証明すればいい話であります。

恫喝・賠償・訴訟ということで思い起こすのは、櫻井よしこさんと朝日新聞・植村記者との慰安婦問題をめぐる訴訟であります。櫻井よしこさんは「 私は植村氏の訴え自体を極めて遺憾だととらえています。氏が言論人であるならば自ら書いた記事を批判されたとき、なぜ言論で応じないのか。言論人が署名入りの記事を書くとき、もしくは実名で論評するとき、その覚悟は、いかなる批判にも自分の責任で対応するということでしょう。言論においてはそれが当たり前のことです。しかし、植村氏はそうはせずに、裁判に訴えました。内外で少なからず私の名誉を傷つける講演を重ね、まるで運動家であるように司法闘争に持ち込んだ植村氏の手法は、むしろ、言論・報道の自由を害するものであり、言論人の名にもとる行為ではないでしょうか。民主主義の根本は、自由なる言論の闘いによって、より強化されます。発言の場を有する記者がこのような訴訟を起こすことを、私は心から残念に思うものであります」と遺憾の意を表しています。

言論人であるにもかかわらず、他者からの批判に謙虚に耳傾けず、言論ではなく恫喝や訴訟に訴えるというのが朝日が持つ体質なのでしょうか。もしそうだとすれば、まさしく独善主義者が有する特異な体質、他者の言論を認めないという独裁的体質と似ています。言論機関として根本的な資質に関わる致命的問題ということになります。