日本共産党は生産手段の社会化について、綱領の中に「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」と明記し、生産手段の社会化を来たる共産党政権の中心的命題と位置付けています。生産手段の社会化を達成しなければ、共産党が考える社会主義社会は成り立たないということです。しかしその生産手段の社会化はどのようにして達成されるのかについては「人類史の新しい未来をひらく歩みですから青写真はありません。国民が英知をもって挑戦する創造的な開拓の過程となるでしょう」というのみで具体性は全くありません。さらに生産手段の社会化を達成した後にくるという社会主義社会については、それがいかなる社会なのか、これも説明がありません。ただ「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」社会という抽象的表現のみであります。「我々の国は幸せではなかった。この国でマルクスの実験が開始されたが、結局のところ、マルクスの理論など存在する余地がないことが証明された」(1991年ボリス・エリツイン旧ソ連大統領)。これは兵本達吉氏の月刊誌記事より引用させていただきました。人間という存在を考えれば、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」共産主義社会というものは、追いかけても実現できない架空の社会でしかないということでしょう。存在し得ない架空の社会を無理やりに現実化しようとすれば、それは地獄の社会へと変質していきます。生産手段の社会化によって、「能力に応じて働き、労働において受け取る」という、共産党一党独裁のもとでの社会主義社会こそが地獄への入り口なのです。一旦この地獄に入ると自力では脱出できません。従って社会主義社会の次にくるという「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」共産主義社会の建設は永遠に不可能であります。実在しない、実在し得ない架空の社会だから、その社会がどんなところかも説明できず、道筋も示せないのは当然であります。「社会主義などといっても、当の共産党自体がイメージを描けていないんです」というのは元日本共産党幹部の筆坂秀世氏の言です。