拉致問題はなぜ解決しないのか?「拉致の黒幕」(4)、浜田聡参議院議員

その人たちが北朝鮮へ行って初めて地上の天国どころか地獄に等しいことに気づき「寺尾に騙された」と恨み骨髄に達したのは当然だろう。その証拠に寺尾氏は日朝協会使節団の秘書長として60年8月に訪朝した際、清津行きの列車の中で帰国者の若者3人に取り囲まれ、騙されて一生を棒に振った僕たちをどうしてくれる、と詰問されている。

朝鮮総連の帰国事業を共産党が全面的に支持・支援したのはいうまでもないが、旧社会党も熱烈に支持、自民党も政府地方自治体も、支援を惜しまなかった。各新聞も揃って帰国は自由意志でと条件をつけただけで、支持の論調を展開したが、その中で毎日は59年2月1日付け社説「北朝鮮送還を実現したい」で、これが実現すれば日本政府も生活保護費の軽減や治安問題で少なからぬプラスとなり、送る側にも送られる側にも好都合ということになる、と政府や自治体の本音に触れている。厄介払いをするつもりだったかもしれないが、後になって北朝鮮に行った親族を人質に取られた形になった。在日朝鮮人たちが北朝鮮への献金や北朝鮮の工作員への協力を強要され、北朝鮮の核開発資金の確保や日本人拉致を助けることになろうとは誰もが予想だにしなかった。

マスコミがそろって北朝鮮天国説

59年12月14日帰国第一次船が新潟を出港した。それを追いかけるように朝鮮総連の肝いりで各社の記者が北朝鮮を訪れ競って北朝鮮ルポを掲載した。いずれも北朝鮮賛美色の強いものだが、のちに北朝鮮に対して批判的な報道・論調をもっぱらにするようになった産経すら賛美しているのが目を惹く。その頃の日本のマスコミを覆っていた風潮を示すものだろう。当時日本のマスコミでは南朝鮮の李承晩政権の独裁に対する批判が強かった。南朝鮮では経済もまた朝鮮戦争の打撃から立ち上がれないまま、農村は疲弊し春秋の閑散期には絶糧農家、つまり食料を食いつぶして飢えに苦しむ農家が多かった。日本のマスコミはそういった窮状を盛んに報道したが、北朝鮮についてはほとんど取材が許されなかったことから、報道の空白地帯となっていた。いわば日本のマスコミ全体が北朝鮮取材に飢えていた、情報飢餓状態にあった。そこへ帰国事業を進展させるために朝鮮総連が北朝鮮取材の機会を与えてくれたのだから、我先にとそれに飛びつき取材先が北朝鮮のしつらえたショウウインドウでのお仕着せで与えられる情報も、北朝鮮が自分に都合のいいものだけ選んだ宣伝であっても、ありがたく頂戴して何の批判的なコメントも付けず報道したわけだ。記者は真実の報道を責務とするが、それは往々にして建前だけで、読者受けのするストーリーを書くことだけに専念する場合が少なくない。読者受けするストーリーとは、散文的で苦い、あるいは複雑な現実ではなく、ロマンティックな夢物語あるいは御涙頂戴の悲劇などだ。北朝鮮天国説はそれにぴったりの単細胞な夢物語だったのである。こういったストーリーが好まれるのはとりわけ社会面の意義だ。朝鮮人を差別してきたという贖罪意識がそれに輪をかける。差別されてきた不幸な人たちが祖国の懐に抱かれて何不自由なく希望に燃えて生きるというストーリーは書く方も読む方もハッピーな気分にさせる。それが真実から遠くても構わない。そもそも北朝鮮のような情報鎖国の国では真実など余程の努力をしなければ掴めない。甘いストーリーの嘘がバレる危険性は小さいのである。そういた安易な取材姿勢だから、いくら取材が不自由であっても、並の観察力さえあれば見抜ける真実がつかめないのだ。韓国に亡命した帰国者の一人、チョンイヘイ氏は著書『帰国船』の中で、彼の乗った帰国船が清津港に着いた時、歓迎に動員された人たちが痩せて正気がなく一目で栄養不良であることがわかり服装もみすぼらしく、履いている靴も汚れたり破れたりしているのを見てショックを受けたと書いているが、訪朝した記者の目にはそんな民衆の姿は映らなかったのか。いや、たとえそんな事実に気がついたとしても、それを書けば準備したストーリーがぶち壊しになるだけでなく、北朝鮮側の機嫌を損ねると二度と取材の機会を与えられないという恐怖からあえて書かなかったのだろう。