前項で日露戦争に関して、ユダヤ人に対するロシアの宗教迫害について述べましたが、日本でも考えさせられることがあります。教科書では「島原ノ乱」と表現され、今まで何ら疑うこともなかったのですが、『街道を行く』(司馬遼太郎)を読んで私の中での歴史認識が大きく変わりました。『乱』といえば反乱という意味で、反乱を起こした民衆を、当時島原を治めていた松倉藩がこれをを鎮圧した。「乱」という言葉からなんとなくそのようにイメージしてきました。が、『街道を行く』を読んで、当時の松倉藩の統治は今の言葉で言えば、時代的背景を考慮したとしても、これは藩による民衆に対する、形を変えた『虐殺』、『宗教迫害』というほうが適切ではないかと思うようになりました。以下司馬遼太郎氏の言葉を紹介します。
「やはり(松倉)重政は、家康から暗に(あるいは陽に)期待されているように、切支丹との戦いを想定して、この城の構造を考えたのだろうかと思えてきたりするが、そのことの穿鑿(せんさく)はしばらく措(お)く。彼はこの城をつくるために、まず有馬氏の旧城である原城の石垣をはずし、それを運ばせた。動員された人夫は延べ百万人といわれ、完成までに七年余の歳月を要した。この費用をひねりだすために、農民を搾りころすほどの勢いで絞った。いくら重政でも、自分の生国なら、このように鬼畜のような搾取はできなかったにちがいない。『島原の人間はよく生きている』と当時、近隣の人々が、あるいは囁きあったかとおもえる」
「重政の神経は、この点でおびえることがない。この点でおびえることがないというのは、重政は本質的に政治家でなく、いまでいうやくざだったのだろうか。家康が見込んだのも、その点だったにちがいない」
「この時期のこの半島にうまれるくらいなら、犬か鳥にうまれてくるほうが幸せだったのではないか」
「牛馬が道を通っても税をとり、畳を敷けば税をとり、子が生まれれば人頭税をとり、死者を葬る穴を掘れば穴税までとった。真偽はわからないが、茄子一本の実の数まで役人がやってきてかぞえ、何個かを税としてもって行ったという。領民として一揆に立ちあがるのが、当然であった。が、生存権をまもるという段階は通り過ぎていて、もはや早くこの世を去るために結束するという絶望的なところに追い込まれていた。島原ノ乱の民衆蜂起の動因は、切支丹の要素は第二次的であったといっていい」。
以上。
この島原の民衆蜂起、一揆は「生存権をまもるという段階を通り過ぎて、早くこの世をさるため」であったという。そこまで民衆(切支丹が多かったという)を追い詰めていった藩のやり方「鬼畜のような搾取」は、形を変えた『虐殺』、『宗教迫害』と言えるのではないだろうか。松倉藩の思惑は定かではありませんが、藩によるこのようなやり方は、もはや改宗を迫るという段階を超えて、切支丹を抹殺することを考えたからではないだろうか、と思えて仕方がない。