・・・『坂の上の雲』第2巻P204より・・・
新聞が、よく読まれた。どの町内にも一人は新聞狂のような人物がいて、時事に通じていた。それ以前のどの時代にもまして、時事というものが国民の関心事になっていた。それほど、世界ことにアジアの国際情勢と日本の運命が、切迫していたといっていい。こころみに筆者も、当時の新聞各紙をひろげてみる。
「露国の大兵、東亜に向かう」明治34年1月11日の時事新報。ロシア陸軍四万がオデッサから海路極東に向かったという。
「まさに来らんとする一大危機・露国の満州占領は東亜の和平を攪乱す」1月22日の万朝報(よろずちょうほう)の社説。
「露国密約問題に大学教授ら奮起。伊藤内閣の軟弱外交を痛罵す」1月24日報知新聞。露清密約はまだ風説の段階であったが、法科大学(東京大学法学部)の有志教授たちが「ロシアと開戦の機、逸すべからず」と痛論し、あわせて伊藤博文の対露軟弱外交を憤慨し、
「いかに文化が進んでも、一国の独立をもちえなければ、ついになんの用もなさぬ」と、論じた。
「帝国議会は、こぞって恐露病患者」というのは、同紙の30日付の記事。
・・・第4巻P24-P25・・・
老化した官僚秩序のもとでは、すべてがこうであった。1941年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきってる点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦争をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というよりは恫喝に対して、たれもが保身上沈黙した。その陸軍内部でも、ほんの少数の冷静な判断力のもちぬしは、ことごとく左遷された。結果は、常識はずれのもっとも熱狂的な意見が通過してしまい、通過させることによって他の者は身分上の安全を得たことにほっとするのである。
・・・第6巻P88より・・・
奉天会戦後の日本の国力窮乏についてはルーズベルト大統領は知りすぎるほど知っていた。しかし同時に、日本人が慢心しはじめているということも、日本の新聞の論調の総合されたものを東京の公使館から報告を受けて知っていた。日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道し続けて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ち込んでゆくことになり、さらには持ちこんで行くための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。戦後、ルーズベルトが、「日本の新聞の右翼化」という言葉を使ってそれを警戒し、すでに奉天会戦の以前の2月6日付けの駐伊アメリカ大使のマイヤーに対してそのことを書き送っている。「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」というものであった。日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・以上
マスコミ報道のあり方は今も変わらないですね。